昭和四十八年八月十八日 朝の御理解
御理解第二節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」
神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る、信心すればということは、大体、金光様に御神縁を頂いて信心しておる、合楽に御縁を頂いた沢山の人が、信心しておるが全部が全部、御神徳を受けとるとは思われない、所謂信心すればという信心が、愈々信じて疑わない心、そう言うものが愈々育っていく様な信心でなけれねばならん、そういう信心をすれば誰でもお徳が受けられる。
もう神徳を受けなければ、人間本当の幸せという事はありえない。 昨夜の御理解に、私申しました、聞いて頂いた事なんですけれども、本当にあの人は幸せそうなと、あの人はどうしてあんな不幸せな事が続くだろうか、と、第三者から見て云うたり、思うたり致しますけども、問題はその人自身の心になって見なければ、判らない、幸せというものは、それこそ月の射し込んだ様な荒屋でも、本当に私逹の様な幸せな者があるだろうかねと云う、なら話し合うておられる様な、夫婦もあるかも知れません。
それこそ何の不自由もない、金殿玉楼の様なお家に住もうて、百味のお食を頂いておっても、本当に私のような業な者がおるじゃろうか、私の様に不幸せな者がおるじゃろうかと云うて、毎日泣き暮らしとる金満家もあるという事です。
ですから幸というのは、私自身が本当に日本一の幸せ者だと思える人であって、本当の幸せ者だと云う事が云えるのです、私はどうしてこんなに分が悪いじゃろうか、私はどうしてこんなに業が深いじゃろうかと思うて、だから、問題は自分自身の心の中に問うて見るのが一番よう判る。
自分が幸か不幸か、本当のおかげを受けとるか、受けていないか、勿論その幸せには、所謂御神徳が伴うて来る、おかげが伴うて来る、という事が信心による幸せなのである、所謂、信心によるというのは、金光様の御信心による幸せなのです。
それは、いろんな他の宗教の中に矢張り、同じ様な事が説いてありますけど、どんなに一生を例えば清貧に甘んずると云う言葉がありますが、貧しくしておっても、難儀をしておっても、心だけは救われておる、助かっておる、それが最高の様に説く宗教すらがありますからね。
金光教の信心は、おかげは和賀心にありと、和賀心と云うのは、本当に私の様な幸せな者があるだろうかという事に尽きるのです。
それが信心より生まれて来るのですから、その幸せな心を人にも伝えて行こう、自分の周辺にもそれを表して行こうと云う様な、働きがそこになされておる、所謂、おかげは和賀心に伴うて来る、人間の幸せの条件が全て整うて来る、それがあゝ私の様な幸せな者があろうかと、お道の信心によって云えたり思えたりする様になる。
そういう人の上に現れて来るおかげというものが、実証的になされた時に初めてです、信心による幸せを獲得出来た時です、幸せというものは、所謂幸福の幸という字を書きます、上から読んでも、幸という字は、幸という字、それを逆様にしてもやっぱり幸せ、幸せという字に見える様にです、私共がどんな場合にあっても、おかげおかげ、こんなおかげはないというて、喜ばせて頂く事も幸せならです、それとは、今度は反対の事になっても、たとえば苦しい、または悲しい、けれども有り難いんだと云えれる、それが幸せです。 だから、そう言う時に直面した時にそこに本当に信心を頂いとる有り難さをしみじみ感じるならば、あなたは、幸せですという事になるのです。
昨夜、合楽会でしたが、久し振りで全員が集まっとられました、合楽会の人逹が、これに野口さんが居られたら云う事はなかといねと云いよるところえ、冨永さんがひょっこり見えられた、もう先生この頃こう云う時に、母ならばこう云う時に、どういう風に云うたり思うたり、行うだろうかと思うたら、すぐ答えが出て参りますと、さあ、合楽会、今夜は合楽会というといそいそとして、お茶菓子の準備なんかしてから、合楽会に出席さして頂いたそうな、その母の事思うたら、一番母が喜ぶ事というたら、そう私でもさして頂く事が、母の喜びと思うたら、答えがすぐ出てくる。
どんな場合でもそうなんである、と云うて遅うから出て見えた、もうまるきり昨日は、野口さんの御霊様を偲ばせて頂く、讃えさして頂く会に終わったのです、けれども、私は、その中で天の運行と云うものが一分一厘の差も間違いなく、運行されておる様に、もう一分でも、一厘でも間違うたら、天地が破裂する、地球が破裂する。云わば地球が海の中に没してしまう、そういう大変な働きを、天地がなさっておって下さる様に、小天地であるところの私、人間は天地の親神様であるならば私共はその氏子と云われる。
大天地に対する小天地だと、こう言われる、ですから、合楽教会という小天地の中でです、行われている、天地の運行にも似た様な、働きというものがです、そういう働きの中におかげを受けておる事が、お互いあまりにおかげを頂き過ぎているので、それを、おかげを、おかげと感じないでおるのではないかと云うお話をさして頂いた。
そう云う事から、最後に西岡先生が、最後の締めくくりを致しておりました、それに素晴らしい表現でお話をしとりましたが、今日、親先生のおっしゃる天地の運行という事が、成る程、親先生の上に、または、合楽教会全体の上に現れておる事は、ここ3.4日の事思うだけでも、それはもう、恐れ入ってしまいますという、自分がその働きの中にある体験を昨日、話しとります。
自分は、懐中時計の大きいのを持っておられます、その懐中時計を出して、まるでこの時計の様なものだと、正確無比だと、裏をひっくり返せば、大きい歯車がこつこつと廻っておる、右に廻っておる、中位のが左に廻っておる、小さいのが、カチカチカチと秒を刻んでおる。
それはもう、それぞれの在り方、それぞれの生き方で、全部違うのだけれども、それが表の方へ、一秒間の間違いもなく、文字盤の上に現れて来る様なものを今の合楽の上に、神様のお働きを感ずる、とこう云うておる。
その1.2の例を申しとりました、野口さんの告別式の時に、盆の事ですから、魚が無い、それから、壱岐の先生がこちらへ見えるからと云うので、壱岐にお願いをした、ところが、3時に到着しなければならないのが、船か飛行機でしょうが、便の都合で、30分遅れるという電話がかかってきた。
それでは仕方がないから魚無しでもおかげ頂こうじゃこてと云うて居った、ところが、野口さんの方から、それこそ、30分間遅くなりますからと云う事であった。
お遺骨の到着する10分前に魚が着いた、もう本当にひやひやしながらでも、1分1厘間違いのない働きを、例えば御大祭の時の直会もそうであった、親先生のお説教が済むと同時に、表に、もうどこえ行ってもだめかと云われとったパンが、参拝者に配るだけの400でしたか、本当にもう、出来たちのが、終わるのと、自動車の着くのが一緒だった。
それこそ、ヒヤヒヤと手を叩いて有り難い事だと思うたと、そういう働きがです、野口さんの告別式、その翌日の大祭、前の日の前夜祭、それには、原さんところの霊祭、ご大祭の準備、告別式の準備、それが一つも混同せずに、1分1厘の間違いのない、それこそ、天地の運行のそれの様に、まあ、この歯車が合うてまっておる様に、な、働きを感じさせて頂いたが、そういう働きの中にある、そういう働きの中に御大祭もあれば、告別式もあるんだ、悲しい事もあれば、目出度い事もあれば、有り難い事もあるんだと、そう言う神様のお働きの中にあるんだと、云う話しをしておりました。
全くそうだなと、もうこれは云うならば、合楽の独壇場、これを見せたり、聞かせたりしながら、信心の稽古をさせて頂けるという事は、何という素晴らしい事か、もう昨日は、いつにない、合楽の方達全部がです、もう今日のごとおかげ頂いた事はなかろうと云うて皆、晩に帰りました。
冨永さんのお話の中にも大変皆が感動しました、もう本当に人間の一番、云うなら悲しい事に直面しながら、この信心などした、親を亡くした悲しみと、信心を頂いておる喜びと、こうやって現わされてしかも、この様に生き生きとして、それが出来て行くと云う事がです、冨永さん、話しをしとられました。
皆さんが見ておられる通り、聞いておられる通りであります、先の世まで持って行かれ、子孫までも残るのは神徳じゃと、私は、野口さんの場合は、その御神徳を持って行っておられると思うのです、種々の出来事の中から、昨日、永瀬さんのところへ真実の事を真実と証す事の為に、永瀬さんところに一緒に写った写真を貰いに行かれたという事です。
御霊様が、あら、あなた昨日、お葬式じゃったでしょうが、けど、ものが云えんけれども、ものが云えんと云いながら、そう云うてもの云うて、その写真を貰うて帰っておられる。
真実を真実として、証せるだけの御霊の働きというものは、先の世までお徳を持って行かれるしるしでしょうが、子孫にも残るという、例えば、冨永さん、又、お父さん、または、家族の方達の信心にです、ははあ、成る程、御神徳はこの様にして、残るんだなあと云う事を感じん訳にはいけんでしょうが。
まるきり、野口さんが現世にあって、居られる様な働きというものがです、主人の上にやら、娘達の上に、働きを残しておられるという事は、成る程あの世にも持って行かれ、この世にも残しておけるんだなあと云う事、そこでなら、野口さんが、日頃どういう信心をしておられたか、昨日、合楽の田中さんが発表しとられました。
もうどんなに難しい問題があって、親先生の御理解だけではどうしても判らない時、野口さんのところに駈け込まして頂くと、田中さん、今日の朝の御理解は、こうじゃろうがの、ここはこう頂くとか………それはもうそれこそ自分で噛んで含める様に、今まで体験しとる事を、話されると心が晴れよったという話しをしとられました、だから、そういう神徳は、信心すれば誰でも受ける事が出来るというのは、そういう信心なんだ、信じて疑わない、今日親先生は、こうおっしゃるでしょうが、それで話は決まってしまう。
だから、只、参りよります、拝みよります、おかげを頂きよります、だけでなくて、日々が、まあここで云うならば、日々の合楽がその一日の支えになる信心の稽古をさせて頂くところから、おかげにもなれば、信ずる心はいやが上にもつのって来る、そういう信心をすれば、誰でも受ける事が出来る、しかもそれは、満てるという事がないという事になるのではないでしょうかね。
今日は、御理解二節を、例えばその様な意味で聞いて頂きましたがです、どうも、神徳は信心すれば誰でも受けられる、神徳を受けなければです、人が悲しい時に、喜びが湧いて来る様な事は、絶対に受けられません、神徳を受けるからそうなのです。
場合によっては、驚かんで済む、場合によっては、嘆かんで済む、場合によっては、腹を立てんで済む、いや立てんどころか、反対にお礼云えれる様な心の状態、神様を信じて疑わないから、それが出来る、それが御神徳になって行くのであります。
先の世まで持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ、只、信心というのではなくて、信心による徳をです、残しておけ、自分が持ってそれを一番端的に表して見せて下さったのが野口さんの御霊と思うですね、もう早速御霊の働きを見せられた、または、それを事実の上に、例えば、娘、冨永佳子さんの上に表しておられるという事なんです。
成る程、残しとられるという事が判るでしょう、信心の尊さはそこに尽きると私は思います、お徳を受けて行くという事です、自分の心の中に真実幸せが感じられる。
私の様な幸せな者があろうかと思えれるところまで、一つお互いの幸せを高めて行かねばいけません。
都合のよい時だけ、本に夢のごとあるおかげ、本当に私のごとある幸せな者があるじゃろうかと、云うておっても今度反対の事になったらです、もう意気消沈してしまう、そして、不平が出てくる、不足が出てくる。
私の様に業な者が居るじゃろうか、私のごと、不幸せな者が居るじゃろうかと云う様な、思いになってしまう様な事ではです、信心を頂いておる幸せを獲得しておるとは云えません、しかもそれは、満てるという事がない、限りないのです。
高芝さんが、告別式の時に、弔辞の中に、親先生が云うとられましたよ、野口さんあなたの信心は親先生の雛形、小型の様なですよと、とても私共の信心が、とても及ばなかったと云っておりましたが、事実そうでした、ですから、云うならば小型です。
昨日、私は合楽会が終わってしまってから、西岡先生の話しがあんまり素晴らしかったから、素晴らしかったおかげ頂いたと云うから、神様にお申さして貰いよりましたら、立派な大学帽ですね、四角に菱になったの、大学帽子を西岡先生が被っとる、そして、小さい子供です、はヽあ頭だけは大学生ばいなと思うた。
今、私がお話やらした事は、皆さんが、合楽で稽古しとられるほどしの方ならば、あヽ成る程と皆判られる方ばっかりだと思うです、西岡先生ならずとも、今、私が云うた事を理解出来る方達ばっかりです合楽の方達は、朝参りにでも参ってくるほどしの方ならば、そうだという事も信じているです、ある意味で判っているです、けれども実際は体が伴うていないという事なんです。
幸せとは云いながら、反対の事が起こって来ると、もう不幸と云うて居る事では、頭だけは、所謂頭でっかちになる訳です。
どこまでも、信心は体が伴わなければなりません、それこそ、ずうから行かねば、信心は判るものじゃありません、本当に昨日、合楽会に参会した方達が、最後の西岡先生の話を聞いて、ホトホト感心しただろうと思うです、それは、素晴らしいお話でした、ですが、先生が実際に見たり聞いたりして来ておるけれども、まだ自分のものにはなっていないという事なのです、お互い、そこんところ合楽の信心は暫く話を聞けば、大体あヽだこうだと説明の出来るくらい判るのです。
けれども、自分のものにするためには、本当に自分の様な幸せな者があるだろうかと思えれる心に、幸せの条件の全てが伴うて来るほどしのおかげを頂いた時に、私は、頭も体も一緒になった時と思うですね、そう云う意味で、今日の御理解二節は、そう云う意味で聞いて頂きたい。 どうぞ。